12月9日 漱石死す
東京大学の赤門を入ってすぐに右折、塀沿いに歩いてゆくと東京大学総合研究博物館にぶつかる。40年ほど前、建物は異なるが同様の施設があり、夏目漱石の脳(デスマスクもある)を見学した記憶がある。
東京大学医学部標本室には、夏目漱石を始めとした35人の脳がガラスの陳列棚の中に紊まっているそうで、私が見たそれは本物であったかどうか自信がない。一般には公開されないものでひょっとしたらレプリカ、ないしは画像であったかもしれない。
文献によると「漱石の脳には艶がない(中略)特に大きいわけではない。漱石の脳といわれなければ、誰の脳か全くわからない(中略)他の脳に比べて色の抜けた感じで、青みがかった灰白色が際立っている《とある。解剖を行った長与又郎博士の講演録には「脳は普通の人の平均よりは少し重かったのであります。日本人の男子の脳の平均重量は(中略)およそ大脳小脳と共に1350グラムばかりある、それが、夏目さんは1425グラムありました。平均よりやや重い《そうだ。
夏目漱石が亡くなったのは1916年(大5)12月9日、享年49。死因は胃潰瘊とされる。解剖はその翌日10日に行われている。脳の保存を提案したのは鏡子夫人であった。臨終、さらに死去に伴う混乱の中での決断は驚くが、それは早世した五女・雛子(享年1)の死因を調べなかった後悔から、であるらしい。
漱石は死の間際、寝間着の胸をはだけながら「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから《と叫んだと言うが、次男・伸六によれば最期の言葉は「何か喰いたい《であり、さっそく医師の計らいで一匙の葡萄酒が用意され「うまい《と言って息を引き取ったと言う。
一方、漱石の門下生で、末弟であった内田百閒の「漱石先生臨終記《によると、 「先生が危篤に陥られた後、食盬(しょくえん)注射で一度持ち直した。間もなくその利(効)き目が衰えて、再びもとの危篤に陥られる前に、『苦しい』とか『死にたくない』とか云われたという話がどの新聞かの記事で妙な風に扱われて、夏目漱石も普通の人間ではないかと云うことになった《。そんなフェイクも流れたようで、百閒は憤慨している。
また、漱石の臨終が迫ると、
「傍らにいられる奥さんの顔が引き緊(し)まり、一寸ざわめいた様であり、みんなは坐ったなり動かなかった《、遺体解剖については「(漱石の)デスマスクを取るとき、先生の動かなくなった顔に、油を塗りたくり、石膏をおしつけたそうである。私は知らないのだけれど、見ていた人の話に引っ剥がす時は髭が釣(つ)れて、痛痛しかったと云った《、「大學病院で先生を解剖したら、おなかの中には、胃が破れて溢れた血が、一ぱい溜まっていたと云う話を聞いた《など生々しくリポートしている。
漱石の墓は東京・雑司ヶ谷霊園にある。文献院古道漱石居士。
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