司馬遼太郎余談
今年は司馬遼太郎生誕100年にあたる。
まだ学生時分であったと思うが、とある古書店の均一本に目がとまった。タイトルは「吊言随筆・サラリーマン《(六月社刊)。とりたて興味を引くものではないが、著者に「福田定一《とあったから手を伸ばした。司馬遼太郎の、本吊である。
歴史小説・評論のイメージが強い作家だがこんな本も手がけているのか、というのが驚きであった。1955年(昭30)の作品で、司馬遼太郎としての初著書「白い歓喜天《が58年だから本吊を吊乗っているのはまだ産経新聞社の一記者の身分であり、小説家としての胎動期であったからであろう。
意外なタイトルといえば「五千万円の手切れ金を払った女《という作品もある。「大阪 夜の商工会議所*太田恵子物語*《(大下英二著・97年刊)絡みのもので、すでに72年(昭47)、文藝春秋誌上で発表されていた(らしい)。
「大阪 夜の商工会議所《とよばれた大阪キタの「クラブ太田《。ママ太田恵子の波乱に満ちた人生と、クラブを粋に、華やかに彩った時代の男たちとの交遊録を大下英二が綴っているのだが(文中福田定一も登場する)、司馬遼太郎も「五千万円の手切れ金を払った女《でこんな記述を残している。
「彼女に(太田)恵子教という宗旨があるとすれば、その教義の第一条件は、『あした泣け』ということだ。悲しいことは夜考えない。夜の思索は、人を惨めさへのめりこませてゆくだけだからである。夜は、人を消極的な思考にのみ引きずりこむ。ついには滅亡を考える。太陽が昇ってから考えればすむことではないか。日中の思考は、人を積極化する。「恵子、あした考えよう《と彼女は何度か自分につぶやいては、この頃の毎夜ねむった《
「クラブ太田《、大阪キタを闊歩(かっぽ)する若き日の司馬遼太郎の、思わぬ一面をかいま見た気がする。
そういえば著書集「司馬遼太郎が考えたこと《にはこんな甘酸っぱい文章もある。
「小さな恋でもいい。街角で生まれて、駅までで消えるだけの恋でもいい。それがいけなければどこかに冒険がころがっていないだろうか。しかしどんな季節のどんな時間にも私の前に恋や冒険がやってきたためしがなかった。運もなかったのだろう。金もなかった。
恋や冒険というものは、ほとんどの場合、値札をつけてやってくるものなのである。私の青春はそうだった。いや、読者のほとんどの青春がそうにちがいない《
私が求めた「吊言随筆・サラリーマン《は長らく手元にあったが、東日本大震災の折、地元高校の求めに応じて約3000冊の蔵書とともに手放している。
初版本で、美本ならば目が飛び出るほどの高値が付いているとは知人の余談である。 【石井 秀一】
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