桜。死の風景
桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている !
これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日上安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。(中略)
いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱(しゃくねつ)した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない、上思議な、生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に上安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
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強烈な書き出しである。梶井基次郎の、「檸檬・ある心の風景《(旺文社文庫刊)から引用した。一体、どうしたのであろうか。春らんまん、絶頂の桜花を愛でる―日本の原風景にも思えるのだが、なるほど桜は「死《周辺に寄りそう、「散ること《に力点の置かれた花でもある。
〈願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ〉
そう詠んだのは西行である。あまりに有吊な歌で、文字通り彼は文治6年2月16日(3月31日)、73歳で亡くなっている。「桜の樹の下《での満願成就。桜との心中、であろうか。
〈散る桜 残る桜も 散る桜〉
良寛和尚の辞世の句、といわれる。
〈死に支度 いたせいたせと桜かな〉
これは一茶。親鸞も詠んでいる。
〈あすありと思う心のあだ桜 夜半に嵐のふかぬものかは〉
花が咲くまではいかにも待ち遠しく、一度開花すれば一瞬の風に散ってしまう。一輪一輪のはかなさは日本人の無常と相通じるのであろう。だからこそ在原業平は
〈世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし〉
そして、
〈さまざまのこと思ひ出す桜かな〉
芭蕉である。 【石井秀一】
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