幸福と切腹
1970年(昭45)11月25日、水曜日。高校2年生だった。
夕刻、練習を終えリヤカーに野球道具を括り付け校舎に戻ると職員室のある別棟が妙な空気、である。覗くとテレビがつけっぱなしで、いつもは帰り支度の教職員が画面の前に直立している。
余談だが、私の高校のグラウンドは極端な長方形で、だから野球部の練習には全く役に立たず、サッカー部が3分の2、残りはテニス部に割り振られた。校庭から追放された私達は堤防の向こうの、葦の茂る河川敷を整備し、勝手に野球場を作った。高校3年間で正味野球に費やした時間はおよそ1年間で、残りはスコップ、バケツを握り、リヤカーで土運びばかりやっていた。強くなるわけがない。
秋の日は短い。辺りは濃暗色で、職員室の灯りの中で居合わせた担任に尋ねると「三島由紀夫がな…」といって右の拳で腹を横に切って見せた。文学青年でもない私は「はぁ〜」と言って帰路についた。いわゆる「三島事件」の、その当日で少々興味を覚えたのは「切腹」という前時代的な儀式は昭和でも起こりえるのだという事実確認であったか。
番組「NHK映像ファイル あの人に会いたい」で、生前の三島由紀夫はこんなことを話している。
「『葉隠』の著者は、いつでも武士というものは、一か八かの選択の時は死ぬ方を先に選ばなければいけない、口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに、武士であっても、結局死ぬチャンスをつかめないで、死ということを心の中に描きながら生きていった」
1925年生まれの三島は20歳で終戦を迎える。その25年後、45歳で自死する。25、20。25、45。意味ありげな数字の羅列に見える。
「自分にかえって考えてみますと、死はいつか来るんだ、それも決して遠くない将来に来るんだというふうに考えていた時(戦時)の心理状態は、今の心理状態に比べて幸福だったんです。それはじつに不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういう時に妙に幸福になる」
「そして、今われわれが求めている幸福というものは、生きる幸福であり、そして生きるということは、あるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり、楽しみでありましょうが、しかしあんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というのは今はちょっとないんじゃないか。(略)それだけに、何かをもって名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局「葉隠」の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを思い暮らしながら畳の上で死ぬことになるのだろうと思います」
三島由紀夫の、「切腹」の意味が、ほんの少し分かったような気がした。 【石井秀一】
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