人生「気晴らし」
記憶に新しいKDDI通信障害から3ヶ月、街はあの大騒ぎから何を学んだろう。
警察、消防、救急など社会インフラにつながらない不安は深刻な事態だが、その一方で「地図が見られない」、「友達と連絡が取れない」など日常の便利が機能せぬ、いらだちも多く見られた。
象徴とも言うべき不満が「暇つぶし、気晴らしが出来ない」であった。片時もスマホを手放せない。求めている情報が全て火急のものではない。背景にあるのは手軽な情報を手軽に検索する、「暇つぶし」「気晴らし」の日常化である。
最近パスカルの著書「パンセ」にまつわる、「『パンセ』で極める人間学」(鹿島茂著・NHK出版新書)を読んだ。
哲学者、数学者、物理学者であったパスカルを、多くの人は名言「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。」、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろう。」でご存じかと思う。
鹿島茂氏の著書に中に、こんなくだりがある。パスカルの言葉として
「人間は、屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋の中でじっとしていることだけだ」
を引用している。その解説に、
「この言葉の真実性は、コロナ禍で蟄居を余儀なくされた人ならば誰もが強く感じたことでしょう。といっても、コロナ禍では、どんな人でも、気晴らしになりそうなもの、例えばスマホ、パソコン、テレビ、雑誌、本などが手元にありましたから、気晴らしはなんとか可能でしたが、もし、これらの気晴らしのアイテムがまったくない状態で、部屋の中にじっとしていることを強いられたらどうだったでしょう」とある。
「こんなことなら、どんな辛い仕事でも、部屋でじっとしているよりははるかにましと感じたはずです。そう、部屋で気晴らしなしで蟄居することに比べたら、どんな仕事でも楽しく感じられてしまうのです」。たとえそれが屋根葺き職人であろうと。
そしてこう結論づけます。
「人は気晴らしなしでは生きられない」
振り返ってみれば定年退職後、私が行政の職員寮管理人をすることも、ボランティアに血道をあげる?のも、にわかに俳句に目覚めたのも、「人は気晴らしなしでは生きられない」からである(多分に私の性分も関係しているではあろうが)。
いまごろ来し方行く末に思いをはせることが多くなった。人生の意義を問うのは老若男女ありがちな懊悩ではあるが、いくらジタバタしたところで人生「気晴らし」と割り切れればなにやら視界も開ける気がする。 【石井秀一】
|