猫の死亡通知
9月13日は、猫の命日である。
ご存じ夏目漱石「吾輩は猫である」ゆかりの猫がこの日亡くなっている(1908年=明41)。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ」という書き出しは誰でも知っているが、この名作の結末を尋ねると意外やあやふやな人が多い。引用してみよう。
「次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支はない。ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月(じつげつ)を切り落し、天地を粉韲(ふんせい)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」
つまり「吾輩」は飲み残しのビールに酩酊し、水甕のなかに転落し水死する。 では、実際に夏目家で飼われていた猫の末期はいかばかりであったか。漱石夫人、夏目鏡子の聞書き「漱石の思い出」にはこんな記述がある。
「こちらに越してきてから妙に元気がなく、ことに死ぬ前などにはたべものをもどすや ら、いったいにしまりがなくなっていて、子供の蒲団といわず、客用の座蒲団といわずや らずいぶん汚したものでしたが、いつのまにやら見えなくなったかと思ってるうちに物置きの古いへっつい(かまど)の上で固くなって」いた。
文中、「こちらへ越して」とあるのはこの一年ほど前、夏目家は本郷区(現文京区)西片町十番地の家から、牛込区(現新宿区)早稲田南町七番地へ最後の引越しをしたからである。
筆まめな漱石はすぐに葉書「猫の死亡通知」を各所に送っている。あまりに有名な文面で、以下の通り。読みにくいので、一部ふりがなを振った。
「辱知(じょくち)猫義(儀?ねこぎ)久々(ひさびさ)病氣の處(ところ)療養不相叶(あいかなわず)昨夜いつの間にかうらの物置のヘツツイ(竈=かまど)の上にて逝去致候 埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人「三四郎」執筆中につき御會葬には及び不申候(もうさずそうろう) 以上 九月十四日」
「辱知」とは、知り合いであることをへりくだっていう語。猫への親愛の情を込めた漱石流ユーモア溢れる書き出しで、しかも葉書は黒枠付きと丁寧だった。
ちなみに漱石からの葉書を受け取った4人のうちの1人、小宮豊隆は「死亡通知」文中で執筆中とされた「三四郎」のモデルであったと言われる。
裏庭の猫墓には「この下に稲妻起こる宵あらん」の句を添えた。 【石井秀一】
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