義足と血糊
昭和28年生まれだからもちろん戦争は知らない。
幼年期、駅へ通じる暗路で傷痍(しょうい)軍人を見た。戦闘帽に白装束、右足は金具で壁に寄りかかって立っていた。ひしゃげたアルミカップが足元にあった。
昭和30年代半ばの風景であったろう。
「カチカチと義足の歩幅八・十五」
秋元不死男の、昭和41年の句である。戦前、新興俳句運動に参加、軍部による俳句弾圧事件に直面し、治安維持法違反の嫌疑で獄中2年。作家小沢信男は、不死男64歳時の、この句をこう読み解いた。
「義足の足をはこぶ、その歩幅がわずか八・十五センチ。這うようにしてたどりついた八月十五日でした」
白装束は小銭稼ぎのペテンだ、との非難も当時あったが
「戦争でさんざんな目にあった者同士の、身につまされたわずかな喜捨が、義手義足の前に積もった」という。
そうであった。母親に促されて五円玉を「ひしゃげたアルミコップ」にこわごわ放り込んだ記憶がある。トタン屋根の、バラック・マーケットでの買い物にはかすかに硝煙の匂いが漂った。そんな気がする。
◆
「昭和史のまん中ほどにある血糊」
作者は「花巻 小田島花浪」であると「観賞川柳五千句集」にある。作家田辺聖子は「川柳でんでん太鼓」の中でこう書いた。
「昭和の歴史の十年代二十年代(いや、すでに昭和ヒトケタの頃から銃声と軍靴のひびきは高まりつつあったが)は血で染まっている。なんと多くの人が死んでいったことだろう」
「そのおかげで平和は四十年つづいているが、血で染(そ)んだ昭和史は白くならない。『まん中ほどの』という位置指定がぴったりしているので、『血糊』ときたとき、パッと顔に血しぶきがかかった気がする」
ロシアのウクライナ侵攻。歴史はいつも血なまぐさいものだが、とりわけ今回、人々はこの戦さから人ごとではない「血糊」を感じとったようだ。「憲法改正」が一段と叫ばれるゆえんであろう。その賛否はともかく。
「戦前の一本道が現るる」
「あやまちはくりかへします秋の暮れ」(三橋敏雄)
戦争を知らないでは済まされぬ、私自身が問われる戦後77年――。 【石井秀一】
|