柿と猿と正岡子規
木守柿、という言葉がある。
晩秋の、柿の木の風情である。夕日は暖色に長い脚をのばし、カラスはカアと鳴き、そして山は、眠る準備に入る。
木守柿―「こもりがき」とも「きもりがき」とも「こまもりがき」、もしくは「きまもりがき」など、地方によって読み方は異なるようだ。
たわわな青柿はいつの間にか熟柿(じゅくし)となり、収穫され、さらには人手の遠のいたそれは朱(あか)くしぼんで、ベチャリと路上に落ちる。
最後に数個、もしくはひとつの柿の実が枝に残る。人々はすべてを収穫せず、柿を、木になったまま残したのである。
風習は、豊かな実りを与えてくれた自然への感謝であり、来年への豊作の祈りであり、野鳥のために残しておくともいわれた。
思えば木守柿は人間と自然、獣たちとの、共存の象徴であった。
猿守(さるもり)、という言葉もあった。
文豪・幸田露伴の孫で、長女幸田文の一人娘だった青木玉が著書「なんでもない話」(講談社文庫)で触れている。
「赤ちゃんを護る神様は、日替わりで十二支を守役におつけになる。ほかのものは、それぞれの取柄で上手にお守りをするのだが、猿はいたずら好きで、髪の毛を引っ張ったり、眠いのを突(つつ)いたりして泣かせる。赤ちゃんにすれば厄日である。今日は猿守だから仕方ない。私などは小さい時、よくそんな風に言われて、ぐずっているとねんねこ半纏(はんてん)でおぶってもらった」
つまり、いつになく赤ん坊がむずがる日を、昔の人は「猿守の日」として諦めたのである。
昔話「猿蟹合戦」に、柿(の種)と猿が登場する。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
今更言うまでもない。正岡子規の、句である。1895年(明28)5月、日清戦争に従軍記者として参加した子規は従軍中に喀血(かっけつ)、神戸での療養生活後に故郷松山に戻った。松山中学の教員であった夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)に滞在、小康を得て再び上京する。その途上、奈良に数日滞在した。
柿にはビタミン、カロテンが豊富に含まれ風邪に対する抵抗力をつけ、アルコールの分解を助けるビタミンCは、緑茶の3〜4倍、みかんの2倍だとか。「熟柿(じゅくし)のような色」といえばだいたい色、夕日とその光芒(こうぼう)に例えられる。「熟柿のような臭い」は酒に酔った人の、息を形容する。緊急事態明け、二日酔いにはご注意を。
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